56年12月31日  除夜祭 ●②x3 ③ ⑨⑫⑬   大坪かよこ
  




 お祭りにご神前にでらせて頂きましたら、ま、最高の日本酒申しますかね、あの、私どもが昔、専門語でりんご化ということを申しました。
最高の日本酒の香りは、りんご香という香りが出るんです。
そのりんご香のにおいが、もう、それこそ酔うような感じで頂くんです。
また、御霊様の前にでましても、やっぱり同じことです。
今日はもう、ここのご神前いっぱいに、りんご香が漂うておる、これは皆さんはどうか知れんが、私はそうでございます。
まぁ、いろいろとあの、臭いで頂くことはございますが、思いますのに、このりんご香という香りは、これはもうなんともかんとも言えん、ま、ただいま、超特級のお神酒でもあんな香りのするような、お神酒はめったに、あの、行き当たりませんですね。
とにかく一升のお米をね、四合、もういよいよん時には、三合位にしてしまうんです。
もう、あの、お米をね、いうなら、小さくなってしますです。精白いたします。
一升の米を三合か四合くらいに精白、より精白度の高いほど、いいお酒ができるとされております。
ね、私は思いますのに、合楽で今おるおかげを頂いておるおかげというのは、先だっての●② 教祖、報徳祭にお参りしたときに、奥城で座らせて頂いたとたんに、私が御心耳に頂いたのは、大向こうから声がかかるといったような感じで、「世界一」という声がかかったんですけども、世界一ということに私意味が解せなかったんですけどね、よもや私が世界一というわけでもなかろうけれども、ね、けれどもね、●⑨
今合楽で解かれておるみ教え、まぁ、それそ合楽理念とこう、人間が幸福になることのため、の御教えとしてはもう、前代未聞であり、ね、開闢以来であり、それこそ宗教以前の、過去の宗教では解き得なかった御教えがね、解かれてある、そういう教えの香りだと私は今日は思います。
今晩思いましたね。
まだ、この鼻に残っておるような感じが致します。
はあ、素晴らしいです。このりんご香の、日本酒のこのりんご臭というのは、なんともかんとも言えません。
ね、それにはね、今申し上げます、一升のお米が、いうなら、三合または四合に減るまで、もうとにかく、ぬかが真っ白い米ぬかです。
ね、今朝からのご理解の中に、匹夫の凡夫から道を開くのじゃから、物が難しい、ね、下から上へ水を流すほどしに難しい、ね、けれども辛抱していくうちには、徳が受けられる、というあのご理解がありますね、あれは、もちろんの道の教師に対するご理解だと思います。
●③ 確かに下から上に水を流すように難しい、難しいということはどういうことが難しいのだろうかと、私は今日はその御理解頂いて思ったんですけれども、信心のいよいよ焦点というのは、日々の改まりが第一と、ね、信心は本心の玉を磨くものぞやと、ね、信心が難しい、暇がいる、ね、それこそ辛抱しぬかせてもろうて、辛抱の徳を受けて、初めて、それこそ上から下に水を流すようなおかげともなってくるわけ、また、身に徳を受けるということにもなってくるわけ、ね、その私は磨くことが改まることが難しいんだと思うんです。
あらたまらにゃいかん、みがかにゃいかんとね、思うてもおっても今朝からの御理解じゃないけれども、確かに磨きよるつもりだけれども、光がでらない。
ね、それこそ磨いても磨いても、身が鉄ならばであって、ね、また何とかの錆が出るといったような結果でどうどうまわりをしておる、過去のいうならば、旧信者、いわゆる本当に信心を、真の信心を求めるという人たちに、それが難しい、いわゆる艱難ということになった。
ね、そしてんなら、十年も、二十年も、三十年も辛抱しぬいておるけれども道が開けない。
これは四国のある先生だそうですが、大変真面目な先生で、もうとにかく、お道の信心はもう御結界に、を死守することだ、あそこに座りぬくことだと、ね、座りぬかれるけども、五年経っても、十年経っても人が助からない。
ね、これはその話を聞かせて頂いたんですけれども、ね、ただ辛抱をしておるというだけではね、ただ辛抱強うなるというだけでは、お徳は受けられん、その辛抱の焦点が、間違っておったらお徳にはならないわけ。
私は今朝からこのご理解を頂いて、ははあ、なるほど難しいと言うのは、ね、辛抱していくうちには道が開けると仰せられるが、辛抱していくうちには徳が受けられるという辛抱でなからなければならんという、ことなんです。
もう合楽にお参りをして二十年、三十年になりますと辛抱しておっても、お徳が受けられんというならば、お徳を受けると言うことの焦点が、間違っておるのである。
ね、それを、なら、合楽ではです、合楽理念に基づくところの、私は今日は、なんなんは合楽理念を持ってするほかはない、といこういうが、ね、最近私は強く感じておることと一緒に、ま、今朝から聞いて頂いたんですけれども、ね、改まりは、磨くことは合楽理念をもってするほかなし、と今日は私皆さんに聞いて頂いた。
●⑨ね、お道の信心の、いうならば、心の芯ともなる、よりどころどころともなるのが天地書付である。
生神金光大神 天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり という、いわゆる和賀心である。
ね、和賀心におかげがあるといわれるから、なら、和賀心とは、和賀心とはとどれだけ沢山の金光教の信心信奉者が、求めてきたか分からない。
そして本当のものに触れてない証拠に、おかげになっていない。
ね、はや、やはりお取り次を頂いて、お願いをして、ま、一生懸命拝む、それで、そんときそん時のおかげは確かに受けておるから、やっぱり、沢山なあんな信奉者が、まだいま、金光教の信奉者の中にあるわけですけれどもね、それが教祖がその、まぁ、言われる辛抱していくうちには徳が受けられると言われる、その徳を受けていない。
徳を受けるところの焦点の違った辛抱では駄目だということ。
ね、徳の受けられる辛抱とは、どういうことだろうかと、ま、本気で求める人たちはいろいろに考えてきたでしょうけれども、今朝から申します、私は、ね、和賀心になるということ、は、合楽理念を持ってするならば、和賀心になろうと思うとらんでも、いつの間にか和賀心が育っていくということであります。
今日、ある方がお参りをして見えて、ほんとに成り行きを尊ぶ、大切にするということの素晴らしいこと、これはけどもう一生がかりのもんですよ、限りがありませんよ、ほんとにあの家庭中のものが拝みおうていくことが、ね、私は本当に思いますが、もう、私はほんとに主人が嫁が、ほんとに手を合わせて拝みたい思いが致しますけれども、ね、いうなら、ほんとに拝みたいから拝もうと思うけれども、相手が拝んでくれなかったら、拝み合いにはならない。。
ね、だから、家庭のものがほんとに、たとえば昨日も、草取りにやらせて頂いて、もうその草取りがもうありがとうして、ありがとうしてこたえん、心の雑草をこのようにして取らせて頂くというような思いで取るから、もうとにかく草取りがきつくも寒くもない。
ね、そして終わった時に、嫁と二人でいって、はあ、ここで嫁ごばほんに、と拝んだらどんなんにか有り難いことじゃろうかと思うた、ち。
また、嫁がお母さん、というて拝んでくれるなら、どんなに、これがほんとの拝み合いじゃろ。なんというても、家庭、家族中の者が、ほんとに手を合わして、拍手打って拝むという、そこまでいかなきゃいけんという意味のお届けをなさった方あがあります。
ね、いうならば、それこそ合楽理念の、まあ、一部とでも申しましょうかね、成り行きをいよいよ大切にするというごた成り行きを尊ぶというその生き方の中でもです、ね、七年八年と信心を進めて行っておるうちに、いつの間にか自分の心が、こう、拝まずにはおれない心が生まれてきたけれども、向こうからもまた、拝み返してもらえれるおかげを頂くために、これからの家庭勢をそろえた信心がでけなきゃならんというわけなんです。
ね、私、あの最近それを切実に思うのは、ね、和賀心に、は、いっちょここは和賀心で、じゃなくて、ここは一つ和賀心でじゃなくて、ここは一つ、いうならば、合楽理念を持ってするならば、どう頂くべきかという、合楽理念をいよいよ本気で行じさせて頂く、いうならそれに取り組ませていただくならば、ね、いつの間にか和賀心が、はあ、自分ながら、は、これが和賀心だなと、ね、ははぁ、いつの間にか磨かれて行っておる、いつの間にか改まった自分をそこに発見する。
改まろう、改まろうでは改まれなかったけれども、ね、合楽理念を芯にして、たとえばなら、ご結界奉仕をする先生が、五年、十年と辛抱したなら、必ずや辛抱の徳を受けるだろう。
ね、そういう意味でです、私は合楽理念がいうならば、これは世界一という言葉では実は当てはまらんかもしれませんよね、ま、なしかというと、過去において、ならそういう助かりの理念というものがなかったからです。
助かるためには、様々な教えが沢山ありましたけれども、それをとても人間生身を持っておるものではとてもとても、たとえば今晩じゃないけれどもね、まあしよると除夜の鐘が鳴ります。
ね、あれは人間の幾つですか、百四ですか、百八ですか、の煩悩というもの消滅の鐘というそうでございますけれども、ね、私共は煩悩その煩悩そのものを拝んで頂くというのですから、ね。
●② 私は一週間ばっかり前に、もう何千何万頭とも分からないような犬がずーっともう行進をしとるとこを頂いたんです。
ね、どういうこっちゃろうかと、これはおかげじゃなかじゃろうと思いよったばってん、段々、はー、来年は犬の年ちゅうけんで、そのことに関係があることじゃろうとこう段々思うようになりました。
ね、そしていうならばまあ、仏教的にいうならば、煩悩の塊である私どもがです、ね、それをお徳の塊にでもしていける手立て、それが一大行進をなして行っておる。
ね、我情じゃいかん、我欲じゃいかん、大酒大食はいけない、けれどもね、そこにお互いが、人間が人間らしゅうということは、ね、のところの間違いをせずに、心して、合楽理念を持っておかげを頂いていくならばです、ね、それこそ、いつの間にか我情が取れて我欲が取れて、ね、いうならば、これが和賀心というのであろう、いつの間にか、ね、磨こうとしなくても、本心の玉に光を感じるようになり、ね、いうならば、何年前の私と今日の私というものを思い比べた時に、まぁ、こうも変われることも変わられたもんじゃあると思うほどしに変わるんです。
変われれるんです、これは私の体験から言えれる、ね、それはどういうことかというと、なら、合楽理念に基づいた生き方を、まぁ、これは私なりに一生懸命に、私、いうなら、合楽教会長としての責任においての、信心が、私は段々なされておるからである思うのです。
今日も朝から沢山な人が、今日はいうなら一年中の御礼参拝というなのが、ま、家族中で御礼参拝をして見えました。
たいがい同じような事を言われますが、信心もでけませんのに、広大なおかげばっかり頂いて有り難たい、まあ、これは社交辞令というか、ま、挨拶のように言いよんなっとの思いもするけど、ようと考えよるとほんなこっと思います。
信心もでけんのにおかげばかり頂いてである。
だからここで信心がもしできるなら、この人たちは今年も広大なお徳を頂いて有り難いということになってくるだろうと私は思いました。
今日御礼参拝をしてきた方達がです、ね、おかげだけではない、ね、これが力というものだ、これが御徳というもんだろうと、自分の心に感じれれる、自分の心に位を感じれるようなおかげを頂いて、御礼参拝がでけれる様になったら素晴らしいと思うんです。
ね、毎朝総代さん方が、いろいろお届けをなさいます中に、ね、総代は総代として、信奉者は信奉者としての、ね、責任においての御用がでけますように、信心が出来ますようにという意味のことをお届けなさいます。
ね、このことをお互いがね、一人一人、合楽教会にご神縁を頂いておるものとしての責任においての信心修行が、ね、または、御用がでけたら、お徳を受けるだろう、合楽理念を覚えた、マスターしたというだけではなくて、いうならば、それぞれの責任においての信心である。
ね、ほんと言うたら、ほんと言うたらね、今日はもう一年中の、いうならば、御礼でありまたいうならば、ね、来る年をそれこそさわやかな新年を迎えたいと思うならば、心ゆくまでいうなら、ま、垢を落として、新しい年を迎えたい、いうならば、お詫びするとこはお詫びして、それこそ許されたと言う実感を持って、新しい春を迎えたい。
ね、ですから、ほんとそれを、そういうふうにしたら、もう今晩はもう、ここにはいらんくらいな参拝者がなからけにゃいかんとですわね。
たとえば、楽人なら楽人の責任において、というものを感じておるから、やっぱ皆でてきとるでしょう。
時間に間に合うようにきちっと出て来とるでしょう、ね、ありゃ、楽人としての責任においての、信心がいうならば、これはそのほかんことまで出来よるとは思われんけど、楽のことだけおいては、でけておられるわけです。
楽人の責任においてでてこれるわけです。
ね、総代さん方が、みんなそろうて出て見えとるでしょう。
ね、合楽教会の総代としての責任においての信心が、と心にかけておるから、でけておるのです。
なら、合楽の信奉者の全てがです、ね、合楽の信奉者としての責任、自分が一人かけたら、合楽のひれいが欠けるというくらいな、思いで信心がもしでけたらどういうことになるでしょう。
●② 私はご祈念中、そんなことを思わせて頂いとりましたら、琴のこまをこうやって、いっちょいっちょはめていく所を頂いたんです。
ね、琴の、いうなら調子を合わせるにしても、なら、一つのリズムが流れてくるにしてもね、あのこまが入らなかったら、音は出らんのです。
いつかこまのことを、真ということ、いうふうに頂いたんですけれどもね、いうならば、合楽理念をいうならば、行じるというか、頂くということは、いよいよ真を、ね、信心の●⑫ 私が毎朝のご祈念の中にです、日勝り、まずは第一はですよ、日参、教聴、心行、信行、家業の行、そこから日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いて、信心の真を表してはどうぞ代勝りのおかげともなりますように、真善美輝く世界に、貧争病ない世界に住まわせて頂けるだけの信心が頂けますようにという、今申しましたとおりのところがあるんです。
だから、皆さんもそういうふうに、祈りそれに、を行じてくださいよ。
ね、もうどんなに忙しい仕事しよ、もう仕事を止めたっちゃよかけん、信心に打ち込んだら、仕事のほうがついてくるです。
ね、日参、教聴、信行、心行、家業の行、ね、よって日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いて、ね、どうぞそれが代勝りのおかげともなるために、信心の真を表させてください、そして、貧争病のない世界、真善美輝く世界に住まわせて頂くようなおかげを頂かせて下さい、これだけのことはもう必ず私は、まぁ、それこそ唱え言葉のようにして、唱えておることなんです。
またそれを一人一人に頂いてもらいたいと思います。
ね、合楽理念のいうなら、行者足らんとするということはです、そういう、いうならば、ね、それぞれの責任においての信心というか、修行がでけた時にです、私は一年を締めくくった時に、ほんとに親先生これがお徳と言うのでしょうか、力というのでしょうか、と。
私の心の中の、それこそ、去年の私と、今年の私という、この変わり果てておる私が、もう有り難うてこたえん、信心もでけませんのに、おかげを頂いて有り難うございます、という人はほとんどであるけれども、ね、ほんとにこれが信心の徳、信心の力というものを頂き、感じるような、私は一年一年でありたいと、ね。
そしてね、これがでけとるからだけじゃいかん、結局その、真の一つ一つがはめられて、調子が合わせられて、いうなら、妙なる、いうなら、リズムが出て来るわけです。
ね、だから、ここを私が申しますと何か難しいごたあるけれども、そのことだけにもう、かかることですよ、信心とは。やっぱ。
そげん神様、神様かかっちゃおられんちゅう。
昨日、行橋のあの、支部長がお夢の、お夢じゃ無い、朝の、昨日一昨日の朝のご祈念のときに頂いた。
それが神様からお言葉で、ね、百日紅の木に鶯が来て止まる、というて頂いた。
ね、それからどういうこっちゃろうか、ち電話がかけてきたから、私があの人にいつも、とにかくあんたは、ね、あんたはね、ほんとに誰でも真似のでけんような信心がでけるけれども、あんたが慢心さえ出さなかったら、あれがいよいよほんと、お徳が受けられるばいち私、ところがやっぱり、そのまあ、信心の一つの天才的なものをもっとりますですね、または私はそれを感じます。
ね、だから、信心辛抱の徳を受けて、神様に私は、それを、それはどういうこっちゃろうか、百日紅の木に鶯が来て止まるちゃ、どういうこっちゃろうか、ち、電話で思いよりました、神様から木違い、ち頂く、はあ、ほんのこつそれは木違いじゃん、ね、鶯が梅の木にとまらにゃんとに、百日紅の木んどんとまっとる、ということと同時にです、ね、猿も木から落ちるというそういう木登りの名人、名人という、名言でもね、ね、木から落ちるということもあるというぐらいだから、用心しなきゃいけないよということであって、そして、昨日、また年末の御礼に支部員皆一同で御礼に出て来ましたから、このことを中心にして昨日の朝のご理解を解いとりましたから、これをよく頂いて行けと言うて、まぁ、もうしましたが、ね。
やっぱりね、私共でもそうでした。
ね、それこそ、この頃、大坪さんちっとおかしいなりよるめ、それこそ気違いよばわりされましたけれど、それじゃ私も困ります。
神様どういうような事になってきたのじゃろうかと、またほんとに、たとえばその当時私がご神前でご祈念をしておる姿なんかは、やっぱちった違たもんのごたある感じがごとあったんです。
で神様にそのことをお願いさせて頂いたら、そうじゃ、お前が言うとおり気違いじゃ、とおっしゃったんです。
ね、けどもお前の気違いはね、笹を掲げてね、歩くあの気違いではない、人間から神へ向かって気が、心が変わっていっておる気違いじゃ、と仰った。
だから信心の薄いものやら、信心のない者やらが、分かるはずがない、ね、かというてなら、●⑬今度は、甘木の初代じゃないですけれどもね、あまりに熱心な信心ができるから、小倉の先生が教師になったらと思われて、今度後本部参拝をしたら金光様にお伺いをしろと言われた。
ほいでお道の教師になる事をお伺いをされると、金光様が、ね、安武さん、親戚中の者が気違い、気違いというような事では人は助からんと仰ったそうです。
ね、だから、一つの過程であり、自分の気が、心が神様へ向こうていって、いうなら、神様にぼうけっしまうこと、けれどもね、私は思うけれども、合楽でも信心にぼうけ、合楽にぼうけた人は沢山あります。
けども気違いにはなっていかんです。
ぼうけとるだけで一生懸命参りよるだけです。
はあ、合楽、合楽ち言うばっかりです。ね、気違いでなか、心が変わっていかにゃ、ただ合楽にぼうけただけじゃおかげにならんです。
お前ばっかりは、合楽にぼうけてしもうちから、と言われるようなことではおかげにならんです。
気違いになっていかな、心は神様のほうへ一歩一歩向かって進んでいっておる、ね、そいではじめの間は、みんなが気違いのように言いよったけれども、やっぱり神様じゃなー、とたとえばここのご造営がでけた時は、みんながそう言いました。
やっぱり神様じゃなー、ね、ですからね、やはりその、ぼうけとるとじゃなかろうかと思うくらいにね、いうなら、合楽に傾倒するということ、そういうことです。
そしていうならば、合楽理念のいうなら、実験実証が楽しゅうしてありがとうして、ま、だんだんこたえんようになってきて、そしてなら目の詰まった信心、朝参りはでけておる、御用はでけておる、ね、何かというときには、あの方が見えとらんことはない。
まぁ、いろんな意味でですよ、たとえばなら、今晩のこうして除夜祭でも、ね、申します様に、ね、一人一人が、いうならば、楽人とか総代とか役員とかというのが、こうやってお参りをして来ておる、
それはその責任においてという、感じがあるからできるのだ、ね、玉櫛を上げんならんから、やっぱり人より遅れとったじゃ困る。
ね、だから、信奉者の一人一人がです、ね、合楽の信心者、信奉者としての責任においての信心が、また御用がでけるようになる、いよいよ来年は十五年の記念の祭を、まあ、向かえることになりますが、こりゃもう、ほんとに一丸となって、それぞれの責任においての信心が、でけることによって、有り難い記念祭を迎えることができるでしょう。
またその記念祭を通して、ね、この十五年の記念祭の時に自分は力を受けた、徳を受けたと思えるようなおかげを頂くためにはです、ま、今日、今晩皆さんに聞いて頂いた内容をね、内容としての信心にならして頂かなきゃならんということでございます。
本心の玉を磨くというても、日々の改まりが第一というても、お道の信心でいう和賀心も、本気で合楽理念の実験実証を日々さしていただけれる喜び楽しみがでけてくるようになったら、いつの間にか、和賀心になっていっておる、いつの間にか改まることになっておる、いつの間にか心に光を感ずる、いうならば、磨いておる、いうならば、ね、一割減とか、二割減、三割減という酒を造る時、まあ、三割減ぐらいがいま、一番よかっでしょうね。
けれども、昔は、品評会というのがあって、それに出さにゃならんというのは、いうならば、ね、七割減、六割減、七割減もという、一升の米を三合か四合にするほどしに、磨き洗ったものでございます。
そして初めて、りんご香が付く、ところがね、段々巧者になって、その普通の銘酒ぐらいなつに、りんごの臭いを付けるそのあれがでけてきたんです。
こりゃやっぱいかんですね。やっぱたとってつけたごたあるとですね。やっぱこう、ね、おのずとこう、その発酵してきて、おのずとそれがかもされて、ね、出てくるそのりんご香、私が今晩、ここの内殿でです、神様の前、御霊様の前でもうそれこそ、もう酔うほどしの、あのりんご香を味あわせて頂いた。
香らせて、かおりをききました。
そして思うことは今朝のご理解とこう思い合わせてみてです、なるほど信心が難しいと言うのは、改まることが磨くことが難しいんだ、ね、そしてその改まる手立て、磨く手立て、磨きよるごたあるけれども、また時々はまたなんとかの錆が出るといったような、堂々周りのようなことでしたけれども、ここに合楽理念が発表されるや、ね、合楽理念に本気で、基づかせて頂けば、ね、今日も、あの、大木の吉田さんていう方、ちょうど来年の十三日が、丸一年になるんだそうです。
ね、日参を毎日してまいります。ね、しかしまあ、よう一年でここまで育ったのうというて私今朝から申しましたが、毎日毎日がその実験実証のね、そのお届けをされます。
それはもう始めから、のっけからね、合楽理念に取り組んでる、だからもう楽しゅうしてこたえん、ありがとうしてこたえん、ね、はあ、一変に儲け出して、一変で借金払いがでけてしもうたというようなこっちゃないですけれども、日々がね、そういう楽しい有り難い日々を、過ごさせて頂くためにはね、本気で合楽理念の実験実証者にならなきゃいけない。
ね、そして自分の心が、ね、いよいよ清められる、ね、いよいよ光を放ってくる。
私は今朝の御理解を頂いて、ほんとに日々の改まりとか、磨くと大変難しい、けれども、確かに合楽理念をもってすれば、ね、磨くこと、改まることは、合楽理念を持ってするほかなし、和賀心を頂くためには、合楽理念をもってするほかなしということをね、また、新たに声を大にして、こうお話しがでけるような感じが致します。
皆さんもどうぞ、その実験者、または実証者になっていただきたいと思います。どうぞ。